と、会話の中で何気なくある方が言われたとき
ばく然と感じていたことを言語化してもらったような気がして
なんだかすっきりしたのです。
ビジョンなどを見るかた、見える方
なにかが聞こえる方を
否定するのではまったくないです
視覚をはじめとした
わたしたちの五感、
そしてその五感を超えたような知覚であっても
「あらわれている」ことには変わりなくて
人がわからない・知覚できない領域にこそ、
実は、ぼう大なエネルギーがあるのでは。
わたしたちが感じられる範囲って
きっとほんの少しなのではと、はっ!としたのです。
今まで(とくに、ここ100年くらい)
わたしたちは
なにものかにならなくてはいけないような
強迫観念のうずの中に
身をおいてきたようなところがあって
なにものでもないことが
心もとなくもあり
目で見え、耳で聞こえ、触れられていることに
一喜一憂しながらも
多くの人が、がんばりながら
その見え、聞こえ、触れられるものに
充実感や安ど感のようなものを見出しながら
それらを大切に抱えていたような気がするのです。
少なくとも、わたしはそうでした。
いや、今もそうなのですけど
その「なにものかでありたい」強迫観念、
これからの世界に
まったくそぐわないような気がするのです。
風水的に
家にはものをおきすぎずに
空間、すき間を作るといいように
心のお部屋にも
「なにものかになりたい」
勘違いの自我のようなものはおきすぎずに
空間、すき間を作っておいて
知覚できない「わからない領域」
ひいては自分を信頼することは
全体と同期することにつながり
なにものかであろうがなかろうが
どうでもよくなっていくのかもしれません。
「みんな、あれが見えた、こんなビジョンが見えた、などと言われるけど
それはあくまでも『見える世界』でのことなんですよ」